パイントグラスに注がれる琥珀色の泡が底に沈む様子を、僕はカウンター 越しに「おあずけ」 をされている犬のように待っていた。 「ここのパブのギネスはアイルランドでも一番うまいんだ」と友人でフル ート奏者のキアラン・サマーズ(Ciaran Somers)がためらいもなくお国自 慢を披露した。 アイルランドではどんな小さな町にもパブと墓場だけはあると自虐的に言う くらい、アイルランド人の生活に密着したパブ。この皮肉は、教会ではなく墓 場であるところがアイルランド人らしい。確かに、なんの特色もないこの街で、 アイルランドで一番美味しいギネスが飲めるというのはなかなかの宣伝文句に なるかもしれないな、と思いながら、アイルランドで最初の一杯を飲んだ。 エールやスタウトはUKやアイルランドには何百種類もあるが、ギネスは世界 中に輸出して大成功しているだけあって、実にうまい。この旅では、この後 各国のビールやエールを飲んだが、ギネスはやはり特別だった。複雑な苦味や 喉を通る泡の柔らかさが癖になる。 これまで度々アイルランドに通った自分でもカウンティ・カーロウ (Co.Carlow)は、聞いたこともないような場所だった。ブルターニュからフェ リーに乗って入国したアイルランドの旅の出発地点がカーロウだ。それから数 日して、僕たちは西を目指して車を走らせた。 カウンティー・クレア(Co.Clare)の小さな村ミルタウン・マルベイ (Miltown Malbey)では毎年7月にアイルランド最大のサマースクールウィ リー・クランシー・サマースクール(WIllie Clancy Summer School)が開催 されており、国内はもちろん世界中から人を集めている。 キアランはここで、 何年か前からフルートの講師を担当しており、僕を誘ってくれたのだ。 サマースクールの期間中はメインストリートの何軒ものパブでセッションが 開催されている。レッスンを申し込まなかった僕はセッションに参加すること だけが楽しみだったのだけれど、その期待はあっさり失望に変わってしまった。 どこのパブもとくかく人が隙間ないほどに詰め込まれていて、通りにも人を 吐き出していたのだ。フルートを構えるスペースすらなく、立って聴いている のが精一杯で、結局参加できたセッションはいくつかしかなかった。 田舎のパブは店と居住空間が一体化した店舗兼住宅の形が多いのだが、この 期間中はセッションに人が集まりすぎて、メインのパブのほか、裏庭や納屋や 母屋のダイニングなど至る場所で同時発生している。そういう「秘密の」セッ ションは人数も観客も少なめでよい音楽が聴けることがある。 昼下がりの明るい時間にダイニングで開かれたセッションでのことだった。 そこには、講師でもあるベテランのフルート奏者やフィドル奏者、そして若い コンサーティーナ奏者など何人かの若い参加者がいた。ダンス曲を演奏しては、 たっぷり話をして、また曲を演奏して……、を繰り返しながらゆっくりと時間 が過ぎていった。 見慣れたセッションと違ったのは、そこに色々な要素があったことだ。曲の 合間に観客の誰かが歌いだしたり、参加者が合唱したり、子供が習いたての曲 を笛で吹いたり、音楽に合わせて熟練のダンサーが踊りだしたり、 そして ジョークやストーリーを語ったり、スペイン語圏からの観客がスペイン語の歌 を披露したりした。 セッションに決まった形はないが、このセッションはその流れが一つの物語 性やよく考えられたエンターテインメントであるかのように完璧で居心地が良 かった。そこで感じたのは、良いセッションとは参加者の誰もが敬意を持って 存在を受け入れられ、そして参加者の楽器や歌やダンスや語りの才能や知識を 参加者全員と共有し楽しむ場所なのだということだった。 ラジオや自動車がなかった時代、音楽やダンスはとても地域的なもので、コ ミュニティの住人が集まって楽しむものだったという。セッションは20世紀以 降の近代的な現象だが、それでもなお、コミュニティの運営を円滑にするため の、コミュニケーションの装置であることに変わりはない。セッションにおい て「曲を演奏すること」はその一要素でしかないのだ。 それに対して、私たち日本人を含む外国人の伝統音楽やセッションに対する 態度や考え方を見ると気づくことがある。アイルランド音楽の伝統が存在しな い私たち外国人の多くは商業的な録音物によってトップ・プレイヤーから間接 的に音楽を学び、演奏技術や曲の習得に対してアイルランド人以上に真剣な態 度で取り組む。 伝統音楽ではどのようにその曲が自分に「手渡された」か、そして曲の背景 への知識が重要視されるが、外国人は人から学ぶ機会が少ないので、すべての 曲がメロディとしてのみ記憶される。演奏することや楽器の技術を上達させる ことが目的となるため、会話のコミュニケーションは少なくなりがちだ。 しかしそれが間違っているというつもりはない。アイルランド人が時々言う socializeという単語がある。社交する、という意味だが、アイルランド人は 人付き合いを重視する。また、気さくな会話における話題や流れやオチといっ たものを日本の話芸のように楽しんでいるところがあると感じる。アイルラン ド人がセッションで語るジョークやストーリーテリングは、英語が理解できな いと理解ができないことはもちろん、その文化的な背景の知識がなくては楽し むことはできない。そのため、言語的な壁がないはずのアメリカ人にさえも理 解ができないことが多いという。 日本人はアイルランド人のように公衆の前で人のプライバシーに立ち入った 話をすることを無礼だと受け取るし、親しい人であっても距離感を保つ傾向が ある。また、歌やダンスなどは一定のレベルを満たさないと人前で披露するこ とは恥ずべきことだと考えてはいないだろうか。私たちはアイルランド人とは コミュニケーション・スタイルが根本的に異なるので、アイルランドのセッシ ョンをそのまま日本で再現すると不自然さやぎこちなさが生まれるだろう。 本当の意味でアイリッシュ・ミュージシャンになるには、アイルランド人の ように英語を理解し、飲み、語り、歌い、踊り、生活することが、演奏と同じ くらい大事な要素なのだろう。それは我々外国人にはとても難しいことだ。 しかしそのように生真面目に考えるのもまた、日本人らしいのかもしれない。 アイルランド音楽はいまや世界中に愛好者を生んでいるが、音楽だけが文化 の土壌から切り離されて親しまれており、それが可能だったからこそ、こうし て楽しまれているのだろうと感じた。
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