2016/04/25

作品は誰のもの

もし自分の作品を批判されたら、自分のことのように傷つき怒るだろうか。そうだとしたら、プロとしてやっていくのは難しいだろう。

先日、とあるクラシックのコンサートを見に行った。一流と言われる非常に有名な演奏家の2時間の独奏だ。めったに聴かないクラシックのコンサート、そして僕には珍しい楽器の種類だったけれど、一流の演奏、2時間の独奏とはどんなものだろう、刺激になればと思い、聴きに行った。

結果的に、一流といえどその程度なのか、と落胆することとなった。その作品を知らない自分でもわかるミスノートやミスタッチを多発し、そればかりか演奏も胸に迫るものではなかったからだ。
長時間の移動やそれまでの仕事の疲れや緊張があったのかもしれないが、お客さんには言い訳にしかならない。

場所も日程も演奏家名も楽器名も明かさずに、その感想をSNSで1つ2つ呟いたところ、匿名の誰かがそのコンサートを特定して、「陰口を叩いている」、 と怒りのリプライを送ってきた。あろうことか、本人に知らせてやろう、などと本人のアカウントにあててリツイートをされたので、即時にブロックした。

自分の言いたかったことはその演奏家の批判などではなく、人はコンサートに何を求めて行くのか、演奏で感動することの得難さについて考えたかったのだ。
某迷惑アカウントがその演奏家のファンだったとしても、ご本人にとっては余計なお世話である。

だが仮に僕がそのコンサートについて批判的な感想を述べたとしても、それが何の問題があるのだろう。ファンは自分の好きな演奏家や感動した演奏を否定されれば、良い気持ちはしないだろう。しかし音楽の好みは十人十色、皆が同じものが好きでなければいけない、批判は許さない、というのは盲信的で怖い。「誰が何と言おうと、自分はこの人の演奏が好き。自分は良さをちゃんと分かっている」、それで良いのではないか。クラシック音楽界はちょっとウェットなんだろうか。

作品や演奏でご飯を食べているプロであれば、作品は作るまでは自分のもの、作ってからはお客様のものである。これは著作権の話ではない。

たとえば映画レビューでは、それぞれが好きに作品の批評をしている。Amazonの小説やCDだって、皆が★1つから5つまで自由に批評している。それは、作品を育てる、市場の健全なあり方だと思う。

受け取り手がどのように評価しようが、作り手はそれを甘んじて受け入れなければならない。だからと言って、ネガティブな評価に過剰に影響されてもいけない。自分が自信を持って生み出したのであれば、その程度で信念を曲げていては、やっていけない。

グルメサイトに批判を書き込まれた店が訴訟を起こす、なんていう話もあるようだけれど、グルメも芸術も受け取り手の好みは色々で、全員を満足させるのは最初から不可能。そして、批評をする人がそれに値する見識を持っているのかという問題もある。作り手は自分を信じてベストを尽くすことしか、自分にできることはない。ベストを尽くしたのなら、あとの評価はお客様のもの。
批判されて反省するべきなのは、信念とは違うことをしてしまったとき、そしてベストを尽くせなかったときだ。
ただ、芸術がグルメやサービスと違うのは、決して顧客満足のためにしているわけではないことだ。芸術的探究心や自分の芸術的衝動や欲求が創作の動機になることもある。そんな芸術は時代を先取りしすぎて誰にも見向きされないかもしれない。それでも存在が許される、存在することが認められるのが芸術なのだ。

もし、グルメサイトのようにコンサートの満足度を評価するサイトが一般的になったとき、芸術はサービス業に成り下がってしまうのかもしれない。

2016/04/22

音楽の届け方

CDが昔ほど売れなくなったそうだ。

それでも、日本はCDがまだ売れている方で、欧州のミュージシャンに話を聞くと、あちらではもう誰も買わないなんて言っている。代わりにSportifyという定額で聞き放題のサービスがあるので、聞きたい音楽があればまずSportifyで探して、そこに出ていないローカルミュージシャンのCDを買うようだ。

中国では、Xiamiというサービスがある。こちらは建前上は、ミュージシャンがプロモーションのために音楽を無料で提供してリスナーに楽しんでもらい、ライブに足を運んでもらうことで成り立つというが、実際にはリスナーによる違法なアップロードが多い。中国では違法ダウンロード・サイトも多いので、こちらでも誰もCDを買わない、なんて聞いた。

日本にはこれらのサービスはないけれど、Apple musicやGoogle play musicなどもあるし、今後はますますCDが売れなくなるだろう。音楽を作る立場としては、どのように音楽をリスナーに届けるかをそろそろ考えなくてはいけないのだけど、日本ではあまり新しい方法が出てきていないようだ。

森博嗣の「作家の収支」 という本で読んだのだけど、本には再販制度というものがあり、小売業者は本の定価より安く売ってはいけないことになっている。本の流通の仕組みは独特で、それについてはここでは書かないけれど、本の値段は、傑作だからとかコストがかかったからというのと関係なく、だいたい同じ水準の値段になる。新書や文庫で1冊10,000円とか、ないでしょう?

かつてはマス(大衆)消費だったので、安い価格でも、多くの人に買ってもらうことで多くの利益を得られた。でも、今はミリオンセラーが出にくい時代と言われ、好みが多様化し、マーケットがニッチになった。その変わり、電子書籍が出てきて、自分の売りたい価格で、消費者とじかにつながれることができるようになった、という話だ。電子書籍であれば流通コストはかからないし、そうなれば、たとえば10,000円の小説を100人の読者相手に売る、というのでも仕事が成立するかもしれない。

実はCDにも本と同じ再販制度があり、だいたいの価格の水準がある。アルバムだったら2000~3000円の幅か。価格をつける時には、微妙な100円単位の違いに迷う。知人がCDを3000円で出すと、「強気だね、自分は無理」なんて思ってしまうし、かといって2000円だと自分を安売りしている気持ちになる。

この値段設定には、コストや利益を織り込んでいるけれど、2人だけで作ったCDが2000円だとしても、5人で作ったら5000円になるかというと、そんなに単純にはいかない。ゲストをたくさん入れようが、ブックレットが豪華だろうが、「常識的な価格」を越えた価格設定は難しい。

売り手の論理としては、そんなに販売数が見込めないなら価格を高くしたいと思うけれど、消費者にとってはそんなのは関係がない。安いほど買いやすいのだ。

だから、最近のCDはどんどん簡素になっている。ペラペラの紙ジャケ、ブックレットなしなんて当たり前だ。コストを下げるほど利益率が上がり、すぐに初期投資を回収でき、活動を続けやすくなる。もはや、豪華なCDを作るのは作り手の自己満足のような気すらする。そもそも、「豪華なCD」は音楽のクオリティとは関係がないのだが……。

僕たちインディーズは、最初から流通での販売には多くの期待はしていない。売上の大半はファンへの直販かライブ会場での手売りだろう。だったら、もうマスの流通は頼りにしないで、もっと柔軟な方法も考えてみたい。最近はデータのみでの販売とか、CDを作る前に資金を集めるクラウドファウンディングなんていうやり方を採用する人もいる。

正直なところ、世の中に音楽はもう有り余っている。音楽が多すぎて、聴くのが追い付かない。それでもCDを買うのは、「必要だから」ではなく、ミュージシャンへの期待と応援の気持ちからだ。

CDを買うのもライブに行くのも、ミュージシャンにお金を支払うことは、期待と応援が形になったものだと思う。音楽家の活動を支援して、活動が継続できるようにし、これから先も良い音楽を作って楽しませてもらいたいから。

音楽を記録したり流通させたりする技術がなかった時代、地域の音楽家は地域のファンに支えられて活動をしていたのだろう。いろいろなツールが手に入るこの時代は、ニッチな音楽であっても、そのつながりを全国に、世界に広げることで、活動をつづけてゆくことができる。

インディーズで活動していると、ファンとのつながりをリアルに感じられる。応援してもらっているんだ、とひしひしと感じる。そんな顔の見えるファンとのつながりを増やし、関係を大切に育てて、よい形で音楽を届け、活動を続けられるようにしたいと思う。

2016/04/20

楽譜を使わないで音楽を教える/習うことについて

ヴァイオリニストとフィドラーの違いを説明した傑作のジョークをご存知でしょうか。

いつくもある中でもお気に入りは、「楽譜がないと弾けないのがヴァイオリニスト、楽譜があると弾けないのがフィドラー」です。

ヴァイオリニストとフィドラーは同じ楽器を使っているのに、彼らは全然違う。そこがジョークになるんですね。

フィドラーが楽譜を使わないとはいっても、ヴァイオリニストが暗譜で演奏するのとは、同じ「楽譜を見ないで演奏する」でも根本的に違います。

そもそも伝統音楽には楽譜という概念がありません。それは、単純に楽譜に書くことが不可能だからです。伝統音楽には旋律の骨組みしかなく、メロディの詳細は決まっていないので、実体がないオバケのようです。装飾や歌い方が奏者に任されているだけでなく、基本となるメロディですら人によって異なります。ですから楽譜に書いた途端に、それは実態とはかけはなれたものになるのです。

例えば販売されているアイリッシュの楽譜によくあるのですが、同じメロディが2小節ごとに繰り返すようなパターンの曲の場合、それをちょっと違った風に書いたりします。「ソソソ」を2回目は「ソラソ」にしたり「ソーソ」にしたり。クラシックに馴染んでいる人は、曲を覚える時にその通りに覚えようとするのですね。すると情報量が多くなってなかなか覚えられません。

また、ある楽譜を使って覚えたのに、同じ曲が別の楽譜では違った風に書かれていて、混乱してしまう。これらの例の正解は、両方とも「どれでもいい」です。

アイリッシュの楽譜を使う場合には、知っておかなければならない「お約束」があるんです。これについては、おそらく英語の文献でも書かれていないので、いつか教本に書きたいと思っているネタです。

楽譜を使ってレッスンをしたり曲を覚えることには賛否あります。アイルランドでも、五線譜ではなくABCという記述法でレッスンで楽譜を使うことがあります。
楽譜がないと覚えられない人もいれば、楽譜があるとかえって覚えられない人もいます。最終的には、きちんと曲を覚えて上手く演奏できれば、経過はどんな方法でも構わないと思います。伝統音楽において「その曲が演奏できる」こととは、どういうことなのかを知っていて、それに向かって努力をすれば良いのです。

では「その曲が演奏できる」とはどういうことか。それは、曲の和声感、リズム感、フレーズ感を理解して、その曲の魅力を最大限引き出すことができるということです。それには「メロディの崩し」や「変奏」も含まれるかもしれません。単にメロデイを覚えている、というのはスタート地点なわけです。それを思えば「楽譜を見て弾ける」といのは弾けるうちに入らず、スタート地点にすら立っていないわけです。そして、その曲を正しく理解するのに一番良い方法については、「よい演奏を聴く」に勝るものはありません。

レッスンにおいて、先生が生徒に楽譜を見ずに曲を繰り返し演奏して真似させて覚えさせるのは、アイルランドのレッスンでは一般的です。僕も採用することがあります。この方法のメリットは、「筋肉の記憶」つまり長期記憶なので長く定着しやすく忘れにくいこと、そして、メロディを覚えているつもりで、実は音色、曲のイメージ、フレージング、装飾音、変奏など多くの情報を伝達することができる点です。しかし、この伝統的で支持されている方法に対してあえて言いますが、僕は非効率的だと思います。多くの生徒は曲を覚えるのに必死で、先生が伝えたいもっと高いレベルを理解する段階に到達しないままレッスンが終わります。最悪、レッスン時間中に曲を覚えきれません。

ですから、レッスンに望む前に生徒は自分がどの曲をそのレッスンで習うのかを把握し、最低でも暗譜してからレッスンを受けるのが良いでしょう。暗譜の方法は、繰り返しになりますが、耳から覚えようと、楽譜を補助的に使おうと、なんでも構いません。僕自身は、レッスンの最後に次回教える曲を生徒に動画を撮影させて、見て覚えてもらうようにしています。スタート地点に立った段階でレッスンに臨み、その曲の演奏方法を習うことが理想です。家でできることは、家でやりましょう、ということです。

クラシックのレッスンでもそうなのですが、レッスン中に練習してもお互いに時間の無駄です。これは、レッスンの最低限のマナーと言ってもいいかもしれません。生徒が、レッスンの時間が楽しければ弾けるようにならなくてもいいと思っているのであれば、そして生徒と教師の間で金銭の授受を通して需給関係が成立していれば、そのようなレッスンは誰に非難されるものでもありません。

ですが、もし本気で伝統音楽を自分のものにしたいのであれば、レッスンのやり方を変えてみてはどうでしょうか?

最後に。

僕のレッスンでは、現在のところ生徒に暗譜で演奏することは奨励はしていますが、強制はしません。音楽の楽しみ方はひとそれぞれですし、誰もがパブセッションをしたいわけでもないでしょう。僕は仕事として音楽を教えているので、生徒がレッスンに満足であれば、僕はそれで良いと思っています。ですが、このような話は繰り返しして前提として知っていただいていますし、本気で学びたい人で見込みがある生徒であれば、やり方を変えて対応しています。そして、もしですが、僕が余命3年しかない、という病気にかかったとしたら、レッスンまでに曲を覚えてこない生徒については他の先生を紹介して、本気でこの音楽をものにしたいと思う生徒だけ教えるつもりです。

ここ数年、自分の意思をつぐ音楽教師や演奏家を育てたいと思ってきましたが、なかなか難しいのが実情です。自分の教師としての資質、生徒の資質、他にも色々な条件がありますが、自分の元から優れた教師や演奏家が育って欲しいですし、自分の時間が限られていますから、そのような人により多くの時間とエネルギーを割り当てたいと思うこの頃です。

2016/04/14

北欧の笛ハンター

先日、金沢で「北欧の教室」と名付けられたコンサートシリーズに出演してきた。
地元金沢に北欧文化を広めようと活動している方の企画で、これまで4回行われている。北欧というと弦楽器が盛んで、ニッケルハルパ、ハーディングフェーレ、ギター、ハープと続いてきたが笛は初めて。確かに、北欧の笛を吹いて演奏活動している人って、日本では僕以外にいるのだろうか……? 北欧でさえ笛は珍しいのに。

これまで笛と笛吹きを求めて北欧を旅をして学んできたけれど、当然ながら日本で披露する機会はほとんどなく、普段は全くの趣味として一人で楽しんでいた。

今回は良い機会をいただいたので、スウェーデン各地とノルウェーの12種類の笛を吹いて、その音楽と楽器の背景についてお話を交えながら演奏をした。それぞれに面白いエピソードがあって、ついつい2時間半もの大講義になってしまった。


アンケートからは、案の定というか、退屈した方の声がいくつかあったけれど、概ね好評ではあったようだ。そりゃあ、笛や音楽に特別の知的興味がないお客さんにとっては、お話よりも良い音楽を聴きたいよね。それを承知で、このような機会を与えてくださった主催者の英断には感謝します。

アンケートを読むまでもなく日本では北欧音楽そのものがアイルランド音楽のようには人気がない上に、北欧の笛は音階やリズムが日本人には馴染みがないものが多く、「商品」にはならないことは、重々理解している。
そのあたり、「笛の魔術師」ことヨーラン・モンソンさんはプレゼンテーションが上手く、たくさんのファンを獲得していて本当に素晴らしい。僕が北欧の笛の魅力に気づいた大事なきっかけの一つは彼のコンサートだった。

僕がほとんどお金にならないにも関わらずわざわざ北欧に出かけて音楽を学んだり音楽家と交流するのは、ひとつは純粋に笛そのものが好きだから。笛の持つ可能性や多様性に触れると、わくわくして、もっと知りたい、自分でも奏でたいと思ってしまう。これは性分なのだ。

北欧は各地に多様な笛があるので、笛マニアにはたまらない。東欧や中国雲南省もそんな匂いがするので、笛を求めていつか行ってみたい。希少植物を探して世界中を旅する人は「プラントハンター」と呼ばれているそうだ。僕は、自分のこういう性分を勝手に「笛ハンター」と呼んでいる。多分、この知識や経験が求められるとしたらコンサートじゃなくて楽器博物館や音楽大学の講義のような気がするけれど。

もうひとつの理由は、魅力的な楽曲や音楽を求めて。その音楽を奏でるためには、その笛を手に入れて習熟しなくてはならないのが、北欧音楽の独特なところだ。アイルランド音楽であれば、だいたいはティン・ホイッスル1本でまかなえてしまうのに、北欧音楽では、その笛でないと音色や味わいが表現できない。面倒なことではあるけれど、それだけに色々な笛を吹くことで音楽に広がりが出ると感じている。

とは言っても、せっかく学んだものを自分だけで楽しむのはもったいない。ケルトの笛屋さんとして地道に情報発信や普及活動をしたいし、hatao & namiとして、僕たち風にアレンジして、お客さんが楽しめる形でプレゼンテーションしたい。

実は、これらの笛を活かして「北欧音楽オンリー」のCDを製作する計画がある。北欧では、自分の地域の笛以外は演奏しないものだが、このように様々な地域の笛を紹介するのは例がなく、資料としても面白いものになるのではないかな、と思っている。どうぞ、お楽しみに!















2016/04/07

音楽を作って暮らすこと

僕の身近な友人がこのたび、全曲オリジナル作品による楽譜集を出版しましたのでお知らせします。

こちらで、ご本人による演奏にて試聴できます。





作者は大阪在住の笛吹き、marinekkoさん。 アイリッシュや北欧の音楽に惹かれて、ティン・ホイッスルやスウェーデンのたて笛「オッフェルダールス・ピーパ」を吹いています。

伝統音楽が好きな多くの人が、伝統曲を覚えて演奏するわけだけど、マリさんは自分で作品を作る方が楽しいらしい。

どこかにでかけたり、印象的な出来事があった時に、その場で思い浮かんだメロディを笛で吹いて、ボイスメモで録音して僕に送ってくれていました。

そんな曲の数々をやがて自身のユニット「リアンノン」でも演奏するようになりました。とてもユニークな活動なのですが、本人は楽譜を読めず、たくさんの曲がありすぎてうっかり忘れてしまうので、楽譜を作ってみたら便利だよ、と勧めたことがありました。それが、こんなに飛躍するとは僕自身も思いもしませんでした。

楽譜では、それぞれの曲は伝統曲と同じく短いメロディで、曲によっては2重奏になっています。コードがつけられており、笛だけではなく様々な楽器で、アンサンブルで、楽しめるようになっています。それぞれの曲にまつわるエピソードも楽しいです。

マリさんはCDもまだ出していないのですが、いずれ何かの形で音源になるといいですね!

 


なぜか、写真が縦になってしまいましたが…



伝統音楽の素敵なところはたくさんありますが、その一つは、飾らずに肩ひじ張らずに、思いを旋律に託して伝えられるところです。

アイルランドでも、伝統音楽の形式にのっとってオリジナル曲を作ることも音楽家の大切な活動の一つで、そういったオリジナル曲集がプライベートな形で出版されていたりしますが、日本でこういう動きがあるのは、とても画期的ですね。おそらく、日本人初めてのような気がしますが、いかがでしょうか。



本作品は近日「ケルトの笛屋さん」で取扱予定ですが、いまのところ、こちらから注文できます。

http://www.plantsindex.com/dvdcd/index.htm#marinekko

これからも、こういう動きが活発になってゆくとよいですね!応援しています。

2016/04/01

Swedish month

世間がSt.Patrick's dayで盛り上がる3月、なぜか僕のところにはスウェーデン人が立て続けにやってきました。しかも、2組のご家族です。

1組目はダーラナ地方の笛奏者Stefan Ekedahlさんとそのご家族。ステファンさんには3年前と去年にご自宅に伺いました。お嬢さんが京都の大学に進学して日本語を学んでいるので、今回はお嬢さんに会うのが目的のプライベート旅行です。

ステファンさんはメインの楽器であるチェロの他にバグパイプと縦笛の達人でもあるのですが、今回はレクチャー&コンサートでダーラナの管楽器について紹介してくれました。日本ではなかなか知り得ない、貴重なお話でした。家にいる間には、曲をたくさん教えて頂きました。

写真は、和食の朝食をふるまったとき。納豆はこわごわ食べていましたね。




その翌週は、南部のスコーネ地方からMarkus TullbergさんとMaria Bojlundご夫妻が。こちらも、赤ちゃんが生まれたので産休を利用してのプライベート旅行です。



マルクスさんは、去年の夏にご自宅をたずねて仲良くなりました。スウェーデンで木製フルートを復興する活動をしている、僕と同世代のプレーヤーです。こちらのご夫婦はアイリッシュも演奏するので、同じ時代の空気を吸ってきたせいか話も合い、楽しい時間をすごしました。
ベビーカーを運んで赤ちゃん連れで海外旅行するって、すごい根性です!スウェーデンの男女平等への考えについては、両ご家族からもよく聞きました。


それぞれの音楽家から教えてもらった曲を、しっかり身につけたいです。

来年の夏には、またスウェーデンに行けたらいいな。
その時には、ぜひ彼らとコンサートもしたいと思います。

最近、プロフィールを書き直したのでそこにも少し書きましたが、地道ながら海外の音楽家との交流を続けていますが、やがては趣味の民宿と組み合わせて、来日ミュージシャンの宿ができれば楽しそうだなと思います。