2016/02/16

サブカル系古楽

みなさん、こんにちは!

時が止まったようなタイでの日々から帰ったかと思うと、目が回るようなスケジュールがまた始まりました。再び現実逃避したくなってきました(笑)

さてみなさん、「サブカル系古楽」というジャンルがあるのをご存知でしょうか。ゲームやアニメの音楽をリコーダーなどを使って古楽アレンジで演奏するスタイルです。

ニコニコ動画やYouTubeでも、 時々ゲームやアニメの音楽を生楽器で演奏している動画を見ることがありますが、同人カルチャーでは、こういう二次創作音楽がすごく人気があるみたいですね。


シューティング・ゲームの音楽をアイリッシュ・アレンジにして生演奏した「東方アイリッシュ」のプロジェクトには、僕の友達も参加しています(namiさんもゲストでこっそり参加しています)。

僕のティン・ホイッスル教本「地球の音色」の読者の方が、自主製作したCDを送ってくださり、初めて「サブカル系古楽」というジャンルがあることを知ったのですが、非常にクオリティが高いです!



こちらの動画は全部一人で演奏しています!なんという才能。





そして、こちらはさまざまなスタイルを駆使して編曲された楽譜を見て解説を読みながら音楽が聴けます。リコーダー上手くてうらやましい!!


これらの音楽を編曲、演奏されているのは、中雑魚酒菜さん。
いまは、才能があればこうして自分だけで音楽を作って発表して、仕事になるんですね!僕はニコ動はほとんど使ったことがなくて、生演奏メインの世界にいますが、サブカルも楽しそうな世界です。


 中雑魚さんのCDはこちらでお求めになれます。演奏のクオリティも高く、古楽風だけではなく様々なスタイルで編曲された楽曲が収録されています。


http://mapoze.com/pub/ttc/

実は、ちょうど1年前に頂いたCDなのですが、こんなにも遅くなって、あまりホットな話題ではなくなってしまったかもしれませんが、ぜひぜひ聴いてみてください!

2016/02/09

2週間引きこもってみてどうだった?

こんにちは、14日間のタイごもりから帰ってきました。

前回のブログに書いた通り、今回は「アイリッシュ・フルート」の教本を一気に書き上げるという計画で、無謀にも同じ場所に2週間も滞在しました。ホテル、というかマンションは快適でなんの不満もありませんでした。


1週間目は新鮮味もあって良かったのですが、さすがに2週目にはちょっと飽きました。


ホアヒンのはずれはストリートが1本しかなくて、家を中心に半径1キロくらいの安飯屋で3食をまかなっていたので、そのへんの食堂のおばちゃんとも顔見知りになり、メニューも決まってきて、そのあたりからダレましたね(笑)。街のこととか、結構どうでもよくなり、ますます原稿に集中できました。


朝起きて、なんかわけのわからない鳥がいつも絶叫していて、朝も食べずにパソコンに向かって、果物とか適当に食べながら、気づいたら日が傾いてる。夜を食べに行って、12時まで原稿に向かう…。というのを繰り返して毎日12時間以上は書いていました。



その上、毎日晴れていて同じような日々で、時が止まった気がしましたよ…。

ホアヒンは白人の老後の移住先として人気なのだそうですが、僕だったら退屈で早死にしそうです。

おかげで、教本は8割がた書きあがりました!

調子づいたので、あとは日本で毎日少しずつ書き足して、完成できそうです。

今回は、ホアヒンだったから良かったんだと思います。

多分バンコクだったら誘惑が多くて、こんなに捗らなかったでしょう。
途中で放棄していた可能性が高いでs

いろいろ不便なので、次もタイにするかどうか微妙ですが、こんな風に毎年外ごもりするのはいいなと思いました。



タイが不便というのは、たとえば英語が全然通じないことですね。


バンコクで「エアポートまで!」と言ってバイクタクシーに乗ったら、全然ちがうところに連れてこられて、文句を言ったら、「移民管制局」みたいなビルに連れて行かれて、話してこい、と。



メニューもバスの行き先も読めず、聞いてもわからず、本当に不便でした。

あと、トゥクトゥクとかバイクタクシーは基本、交渉で料金が決まるので、かなりぼったくられましたね。そんなもんかと思って払ってたら、となりでタイ人のおばちゃんが僕の5分の1位の値段で払ってたのを見て、卒倒しました。



レストランも八百屋も、値段が書いてません。いちいち値段を聞いて、負けさせるのって、すごい面倒臭いですよ。書いてない理由は、たぶん、外国人価格っていうのがあるのだと思います。

だって、向こうの平均月収18,000円程ですから、そりゃあ外国人から多めに取ってもバチはあたらないだろうって思いますよね。

だから高くてもいいだろうと思いきや、不思議と物価の安い国に行くとその国の物価と生活水準に慣れるので、なんだかケチになります。

100円高かっただけでも、すごく損をした気分になります。100円あれば、ビール飲めたのにな…とか思っちゃうんですね。

あと、この国は道路交通法あるんでしょうけど、めちゃくちゃゆるいです。

バイクタクシーはお客にヘルメットをかぶせないし、原付ノーヘル3人乗りは普通です。
マイクロバスは、ルームミラーを花掛けだと勘違いしているし。




まあ、いろいろなリスクも不便も含めて、この値段なんだろうなあ…という感じです。

僕は引きこもってたので人とのトラブルはなかったですが、バックパッカーで
旅するのはトラブル続きでしんどそう〜。

日本に帰ったら、やることが山のように溜まってました。気がつけば2月。本当に「神隠し」にあった気分のタイ旅行でした。














2016/02/04

好きなことをとことんやってみた

タイに来て9日が経ちました。あと残すところ4日になり、執筆のペースを上げなくてはとちょっと焦りが出てきました。

僕の好きな作家の本田健さんがよく、「人にやるなと言われてもやってしまうこと」「何時間やっていても飽きないこと」「人の作品を見て僕だったらこうするのになって思うこと」があなたのライフワークになる可能性があります、と言っています。

僕の場合、ケルトや北欧音楽の、特に笛文化について調べたり、書いたり、聴いたり、演奏したり、教えたり、楽器を集めたり、人に紹介したりすることなのですが、その中でも普段やりたくてもできないことがあります。

それは、「調べたり、書いたり、聴いたり」というところです。

毎日の生活や仕事に追われて時間が取れないのですが、音楽を調べたり聴いたりすることも、楽しいし、インプットという点でもとても大事だと思っています。

今回タイに来て、シャワーを浴びたり、洗濯や部屋の掃除をしたり、食事や買い物をする以外はすべて執筆できるという、まさに缶詰状態を初めて経験しました。

気晴らしにプールで30分泳いで、フルートを30分吹く以外はすべてパソコンに向かっているので、1日12時間は執筆していると思います。こんな時間を取ることは、日本で2週間すべての仕事をオフにして家にいても、不可能だったと思いますから(家だとついつい気が逸れるので)、タイまではるばる来て本当に良かったです。

おかげで一日中音楽を聴いて、普段調べたかったのにできなかったことをゆっくり調べられて、心から幸せで楽しいです。

それと同時に、好きなこと「だけ」をやり続けるのは苦しいものだなというのもわかりました。僕の場合、本当に好きなので、飽きたり、いやになったりすることはありません。
目が覚めたら自然とパソコンに向かいますし、疲れていて横になっても先が気になってすぐ戻ってしまいます。まさに、やるなと言われてもやってしまう状態です。好きでやっているのだから、ストレスはありません。でも、調べるほど深みにはまっていき、終わりがないというのは、苦しいものです。


今回はアイリッシュ・フルートの本を書いているのですが、今回は出版社に依頼されたわけではなく、持ち込むわけでもなく、完全に自費出版です。初期投資の経費は持ち出しです。

ですが、アイリッシュ・フルートの存在感が年々高まっているこのごろ、自分が出さなくては、たぶんこの先誰も出さないように思います。これまで出すチャンスはあったのに誰も書かなかったことを思えば。

それに、自分が、それをするのに一番適役だと思ってもいます。それは自分が演奏家や教師として一番優れているからなどというわけではもちろんなく、英文が苦にならず、音楽のことを調べたり書いたりすることが好きなフルーティストが少ないだろうということです。これは、演奏家や教師とは別の才能です。

今回の本は、すでに英文で4冊出ているアイリッシュ・フルート教本のまとめのような内容になります。というのも、どれもそれぞれに良いのですが、それを統一した日本語の本があれば最も良いと考えていたからです。つまり、決定版というわけです。何か先行の研究や発表があるのであれば、それをすべて読み込んで踏襲して、最後に自分がそれよりも優れていると思う何かを足すのは、当たり前ではありませんか?

僕が書いたティン・ホイッスル教本は、ありがたいことにロング・セラーとなりましたが、この本が売れるかどうかは、僕にはわかりません。ですが、日本でアイリッシュ・フルートがもっと知られるようになってほしいし、その価値が絶対ある楽器だと信じています。
この本を読んで、誰かがアイリッシュ・フルートを始めて、すごくいいプレーヤーになって、僕にいい音楽を聴かせてくれれば、赤字でもまあいいやと思います。
そして、一度出版されさえすれば、僕が死んでからも、22世紀でも誰かの役に立つのです。

だから、これが出版されるまでは何があっても死ねないなと思うので、早く完成させなくてはいけません(死なないけど)。

ちなみにヴァカンスですが、こうやって1年に真冬の1ヶ月は東南アジアで執筆したり作品を作って、真夏の1ヶ月はヨーロッパで音楽の調査や修行をする、というのを毎年のサイクルにできればどんなに良いだろうかと思います。そして、そう思ったのなら、たぶん遠くない将来、そうできるようになります。

2016/02/02

アイリッシュ・フルートの歴史

現在執筆中のアイリッシュ・フルート教本の最も苦労した部分、歴史についてのレポートがまとまったので公開します。
まる2日かかりこんなに苦労したのは卒論以来ですが、きっと有意義な成果になったのではないかと思います。




古代の笛

アイルランドで発見された最古の笛は、13世紀のもので、やはり骨でできていました。ですが、当時どのような社会的文脈でこの笛が演奏されていたのかについては、わかっていません。

ヴァイキングが襲来してきた時期のアイルランドでは多様な笛が作られました。スカンジナビアから持ち込まれたものだったとしても、間違いなくその時期のダブリンで演奏されていました。
トニー・マクマホンTony MacMahonが古代アイルランドを舞台にしたドラマ”The Well”にて鳥の骨の笛を使っていたのですが、これはまったくの創作ではありません。

現代ではフルート奏者のDesi Wilkinsonがホッグウィード(ブタクサなど雑草の総称)やニワトコの木で作ったフルートが20世紀の変わり目くらいまで演奏されていたことをつきとめました。

ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンのアイルランド民間伝承局Department of Irish Folkloreには、北アイルランドのカウンティ・アントリムAntrim1940年代に子供が空洞のあいたサイカモアカエデのフィップル・フルート(ホイッスル型の笛)を吹いていた写真があります。

このように、なんらかの笛が歴史的にアイルランドで演奏されていたのですが、それはティン・ホイッスルのようなフィップル・フルートだったと思われます。

伝統音楽へのフルートの導入のなぞ

私たちが関心を寄せる問題は、どのようにして伝統音楽のダンス曲の演奏にフルートが使われるようになったのか、ということです。今日の伝統音楽で使われている私たちが伝統的だと考える楽器の大半は、実際はほとんどが外国から取り入れられたものです。それらは最初は19世紀から20世紀の変わり目に、そして次に1960年~1970年代の変わり目に伝統音楽に輸入された楽器です。

それ以前の、ダンスがアイルランドで確立した18世紀中頃までに演奏されていた楽器は2つありました。ひとつはフィドルであり、もうひとつは古いタイプのバグパイプです。

多くの人がバグパイプこそがアイルランド固有で最古の楽器だと信じているのですが、意外にもフィドルのほうが歴史が古いのです。アイルランドの象徴的な楽器である金属弦のアイリッシュ・ハープは17世紀には衰退してしまいましたが、ここのテーマであるダンス音楽においては近年まで使われることはありませんでした。

この状況は、コンサーティーナやアコーディオンのフリーリード楽器、バンジョー、ギター、ピアノが伝統音楽に登場する19世紀になるまで変わることはありませんでした。それらはアメリカでのアイルランド伝統音楽の影響を受けてアイルランドに導入されたのですが、それについては後ほどお話しします。

フルートは古いこれらの2つの楽器の時代と、新しい楽器が到来した時代のどこかの時点でアイルランドに入ってきました。私たちがここで話しているタイプのフルート、つまり円錐管のシンプル・システム・フルートは、ヨーロッパ大陸において17世紀の終わりころに登場し、18世紀初頭にはアイルランドに到達していたことと思われます。

ですが、フルートがアイルランドに長い間存在はしていたにもかかわらず、伝統楽器に受け入れられて確固たるものになったのは19世紀後半になってからの現象です。

大衆音楽についての歴史的な記録や絵画は少ないのですが、いくつかわかっていることがあります。

1833年のマクリスMacliseの絵画”Snap Apple Night”に描かれた、カウンティ・コークCo.Corkでのパーティの様子の絵の中にダンサーに音楽を演奏するパイパー、フィドラー、タンボリン奏者が描かれています。

1842年の水彩画”A  Sibin near Listowel”には制服を来たフルートとタンボリンのデュエットが描かれていますが、彼らは室内の観客に向けて演奏しており、後述する当時ファイフが採用されていた軍隊の軍人でマーチングの音楽や政治的な音楽を演奏しているようには見えません。

エスキン・ニコルErskine Nichol1856年の絵画”The 16th,17th(St.Patrick’s Day)and 18th March”には、カウンティ・ダブリンCo.DublinのマラハイドMalahideにてフルート奏者がバグパイプや口琴奏者とともにダンスのために演奏する様子が描かれています。

すこし遡り、18世紀のアイルランドのダンス音楽を状況をみてみましょう。ダンス音楽が一般的に幅広く広まったのは、職業としての旅楽士達による功績で、彼らはダンス教師として特定の地域を旅しながらダンスを教えたり、ダンスの伴奏をしたり、無伴奏で楽器の独奏をし、ダンスに関わることで生計を立てていました。

ダンス教師の楽器はフィドルかイリアン・パイプスでしたが、それは当時の唯一の旋律楽器でした。フルートは当時はアングロ・アイリッシュつまりイギリス系のアイルランド人の子孫たちの間で演奏されていましたが、ダンス曲の演奏ではなく、ヨーロッパ大陸と同じような使われ方でした。

その後19世紀後半になって、フルートはアイルランドの各地の伝統音楽で見られる一般的な楽器になっていたようです。その間に、なにが起きたのでしょうか。

フルートの「お下がり」説

定説のひとつは、裕福なアングロ・アイリッシュ(イギリス系のアイルランド人)、つまり「ジェントリー」たちの「お下がり」というストーリーです。

18世紀中期からほぼ19世紀末までイギリスとアイルランドでは、フルートは地域の上品な趣味人によって演奏される、アマチュアの音楽愛好家の楽器でした。ヨーロッパの流行としてアイルランドに輸入され、良い趣味を示したり、子供の早期教育、時としてアマチュア音楽家が作曲するための目的で演奏されました。

やがてベーム式フルートが発明されると、裕福な家庭の愛好家の手にあった古いフルートは放棄され、安価でオークションや質屋に流れました。こうした大量の流出によりシンプル・システム・フルートの価格が下落し、これまでフルートなど手の届かなかった庶民の伝統音楽家の手に入るようになったのだと仮定しています。

確かに、伝統音楽の演奏に使われていたかどうかはさておいても、当時のアイルランドにおいてフルートは演奏されていました。1740年以降のダブリンにはフルート工房がありましたし、有名な伝統音楽蒐集家であるフランシス・オニールFrancis O’Neill850年頃に西コークでフルートが「紳士の楽器」だと教えられたという数少ない書かれた記録もあります。1850年頃にバグパイプ製作家のCoyneによって作られたいくつかのフルートやファイフが現存しているのですが、これらの楽器がなんの音楽を演奏する意図で作られたのかは知りようがありません。

とはいえ、この「お下がり」説は少々疑ったほうが良いかもしれません。
というのも、もともとの所有者自身が伝統音楽を演奏していたかもしれないという資料が残っているからです。特にイリアン・パイプスに関しては、「紳士」がダンス曲の伝統に関わっていたケースがたくさんありました。

ひとつの例として、ハープのリヴァイバル初期の催しで演奏したことがあるハープ奏者アーサー・オニールArthur O’Neillは、19世紀の変わり目にカウンティー・ロスコモンCo.RoscommonのストリームズタウンStreamstownで行われたジェームス・アーヴァインMr.James Irvine氏の邸宅での音楽の催しについて日記を残しています。

その場に集った音楽家の楽器のリストには、ピアノ、ハープ、チェロ、クラリネット、フィドル(ヴァイオリンではなく)などの演奏者とともに、フルート奏者とバグパイプ奏者が含まれていました。ですからこれをもって早い時期から伝統音楽でのフルートの地位が確立されていたと考える向きもあります。

しかし、いくつかのダンス曲が演奏されていたとしても、オニールがダンス音楽を「料理人と召使の音楽」と表現していたことを考えれば、この集まりが伝統音楽の「セッション」だと判断するのは早計でしょう。

このように、19世紀中期に「紳士の」フルーティストたちによって、ダンス曲がいくつか演奏されたであろうという強い可能性がありますが、それは私たちが想像するような伝統音楽家たちがダンスのために音楽を演奏することとは異なる社会的状況でした。

まず、それらを示す文書や絵画の証拠はありません。そして、伝統音楽家が所有していた、1800年以前の時代を特定できる現存する物的証拠、つまり楽器はありません。バグパイプ製作家が作った現存する何本かのフルートは伝統音楽家たちがフルートに関心があったことを示してはいますが、そのような楽器が少ないということは、やはり伝統音楽家がそれほどフルートに関心がなかったと解釈できます。
フルートの初期の導入については、アイルランド中西部で顕著な普及の地理的な偏りについて考える必要があります。それには、軍隊でのフルートの使用との関わりがあります。

軍隊での使用について

もう一つの説は軍隊での使用がフルートを広めるきっかけを作ったというものです。大陸のフルートの伝統は、たとえば15世紀にスイスでファイフを採用した鼓笛隊が活躍していたように軍隊に起源をたどることができます。

鼓笛隊はアイルランドへは最初は17世紀にブリテンの軍隊を通じて持ち込まれました。ファイフの甲高い音が戦争の信号として、また兵士を鼓舞するために使われたのです。アイルランド王国とグレートブリテン王国との合併を定めた法律「連合法」の制定(1800)以降のアイルランドには各地に駐屯地ができ、多くの連隊が鼓笛隊を備え、公衆で演奏する機会がありました。この文化は独立後も定着し、1950年にはアイルランドの多くの街や村が鼓笛隊をっています。

アイルランドの政治運動においても、ファイフが同じ目的で使われました。特に19世紀において、ブリテン諸島の近隣の島々でもそうだったのですが、鼓笛隊はアイルランド中で流行したのです。

どうしてそれほどの人気が出たのでしょうか。それは、フルートが最も安く、学ぶのも簡単で、携帯性があったからです。そして、これら鼓笛隊で使われていた楽器は安くて手に入りやすく、北部では多くの場合、旋盤で外形を削るのではなく、小刀で削り木工きりでボアを作り、歌口と指孔を焼ごてで開けるという、誰にでも可能な技術で作られた多くの記録がありました。

音楽が録音物ではなく楽器によって奏でられた時代、笛の音色は遠くまで届き、人々を特に惹きつけました。若い人たちは文字通り、音楽を学ぶために軍隊に入隊したのです。

今日フルートの伝統が根強い地域は19世紀に政治的な運動が盛んだった地域、つまり流行や富の中心から置いてかれた、変化がゆっくりな場所と関わりがあります。こうしてフルートと太鼓が庶民の生活に持ち込まれました。
伝統音楽においてスライゴー、リートゥリム、ロスコモンと北メイヨーでフルートが盛んに演奏されるのは、このような理由があるのです。

鼓笛隊で演奏される横笛ファイフが伝統音楽において使用されていたという証拠はありませんが、それを完全に否定する証拠もありません。

しかし、軍隊でフルートが使われたことは、潜在的な演奏者を広めるきっかけになったという点において意義があります。軍隊のファイフやフルート奏者たちが、彼らが演奏できる楽器をもって伝統音楽に触れたとは考えるのは自然なことです。この理論を支持する興味深い言語学的な点は、「ファイフ」という用語はアイルランドの田舎ではフル・サイズのフルートを意味するということです。
ファイフは通常はコンサートフルートよりもずっと短いBb管ですが、当時のダンス音楽はソロで演奏されていたため、標準ピッチという概念がなかったことを加味しておきましょう。

北部アイルランドでの鼓笛隊の伝統については、Gary Hastings”With Fife and Drum”を参考にすると良いでしょう。

移民による導入

フルートを紳士たちが愛好したことと、軍隊を通じて鼓笛隊が組織されたことの両方のできごとによって、フルートはアイルランドでは馴染みのある楽器になりました。このおかげで、円錐管のシンプル・システム・フルートがオーケストラでは時代遅れとなり一般の奏者に手に入れやすくなる時代までに、すでにフルートやファイフを演奏できた人がいたということは明白です。

フルートは実際のところ、アメリカやイングランドに渡っていったアイルランド移民たちを通じて伝統音楽に導入されていきました。直接アイルランド人たちがフルートを購入していたことは、フルートが当時すでにアイルランドの伝統楽器としての側面を持っていた可能性を示唆しています。

19世紀後期と20世紀初期の前に、たくさんのシンプル・システム・フルートが手に入っていたであろう証拠はいくつかあります。シンプル・システム・フルートはこの時期に多くのプロやアマチュアから放棄されたからです。
19世紀後期から、ドイツのザクセン州やアメリカで作られたシンプル・システム・フルートの多くは、移民労働者が買える程度の値段になっていました。それらはジャーマン・フルートとして知られる楽器で、伝統音楽家の手にまだ残っているという意味では最初の物的証拠であり、伝統音楽家によって奏でられた写真の証拠としても残っています。

私たちが今最も親しんでいる大きな孔を持ったイングランドのフルートはアイルランド移民が移民先をアメリカからイギリスに変えるようになった時までは登場しなかったようです。

当時の伝統音楽家が海外に行く友達や親戚を探して、フルートを持ち帰って欲しいと頼んだでろうということは想像にかたくありません。最初はアメリカから、続いてイングランドから送られて持ち帰られたフルートが、すでに伝統音楽で
フルートを演奏しているのを見たことがある奏者の伝統音楽での需要を満たしたのです。

アメリカからの影響

最初にお話ししたとおり、18世紀中期以前ダンス音楽はソロで演奏され、楽器の種類は限られたものでした。こんにちのように数多くの楽器がアンサンブルで演奏されるようになった背景には、アメリカからの影響がありました。

移民国家アメリカでは約1900年以降、様々な人種を対象にした世界の伝統音楽の録音産業が発達しました。その中にはアイルランドの伝統音楽も含まれており、当時のアメリカの大衆音楽の影響を受けてピアノで伴奏されるのが常でした。余談ですが、この文化はイリアン・パイプスのレギュレーターの発達にも影響を与えています。このようにアンサンブルで演奏することが一般的となり、これまで使われてこなかった様々な楽器も伝統音楽で使用されるようになりました。その中にフルートがありました。

録音産業は1920年に崩壊するまで様々な録音を遺し、その中にはアイリッシュ・フルートの最初の音響的な証拠となる音源も含まれていました。

大飢饉後のアイルランド系移民は、ベーム式フルートに取って代わられて不要になった木製フルートを収集し、そのうちいくつかをアイルランドに送りました。賃金労働者達には今やフルートを買う経済的な蓄えや、文化活動をする時間もあったのです。
木製フルートはアメリカにおいてアイルランド音楽の象徴的な楽器になりました。オニールの曲集には、美しい楽器を持ったたくさんのフルートの紳士達の写真があります。

20世紀に入るまでのアイルランドの田舎において、これらの新しい楽器が演奏されていたかどうかははっきりとはわかりません。フィドルについては影響力のある演奏者がその後で何世代も地域の伝統に貢献したことについてはよく記述されていますので、フルートにもそのような現象があったことは考えられますが、このことは、フィドルとパイプスの地位に比べてフルートの地位がまだ低かったことを思わせます。

フルートの繁栄

これまで見てきたように、アイルランドのダンス音楽にフルートが導入されるようになるまでには紳士のフルートの愛好、軍の鼓笛隊での使用、モダン・フルートの誕生とシンプル・システム・フルートの没落、移民、アメリカでの音楽産業という複数の要因が関わっていました。

モダン・フルートが普及し、アイルランド人の経済力が向上した後もなおシンプル・システム・フルートが伝統音楽で求められ続けているのはなぜでしょうか。

19世紀の主な楽器はイリアン・パイプスでしたが、その運指はシンプル・システム・フルートとほぼ同じでした。指孔を直接抑えることも共通しており、音程を滑らせたり意図的に低くしたりして、感情を表現することができました。
平均律ではない音程を表現できる能力は、古いレパートリーをフルートに移し替える際に有効で、個人や地域的なスタイルを表現することができたのです。
また、シンプル・システム・フルートは、アイルランドの最も伝統的な楽器のひとつであるフィドルで得られる完全な音程、音量の幅や洗練されたアーティキュレーションなどを再現できる、理想的な楽器でした。

こうして20世紀初期のアメリカでのフルートの録音を経て、1930年から1970年の間にケイリーバンドが発展し、フルートはバンドの中にかならず1人から3人は含まれる、重要な楽器となりました。1960年代のフォークリヴァイバルから、フルートはアイルランドで人気を得て、1970年には伝統音楽への回帰運動が起き、フルートはいまや世界中のどこでも広く演奏される楽器となりました。

アイルランドでの伝統音楽のリヴァイバルに触発され、いくつかの重要なフルート奏者の功績により、シンプル・システム・フルートはウェールズ音楽、スコットランド音楽、フランスのブルターニュ音楽、スペインのアストゥリアス音楽などヨーロッパ各地へと再び広がっていったのです。


現在は世界中に高いレベルのシンプル・システム・フルート製作家がおり、新たな需要を満たし続けています。また、それを牽引する国際的に知られた多数の名演奏家がいます。フルート奏者によるソロアルバムは数百とあり、シンプル・システム・フルートの教室は世界にあり、専業の教師がたくさんいます。このように、シンプル・システム・フルートはいま、まさに19世紀以来最大の繁栄を誇っているのです。

2016/02/01

ヴァカンスを取ることについて

みなさん、こんにちは。

タイのバンコクから南に200㎞とリゾート地、ホアヒンに来て1週間が経ちました。今回はAirbnbで探したコンドミニアムに2週間滞在する予定になっており、今日で半分が過ぎたことになります。



タイに来たのは学生時代以来ですが、前回のブログエントリの通り、タイを選んだことはとても良かったと思っています。

物価が安く、空港で両替した5000バーツ(16000円くらい)を、やっといま半分使ったところです。しかも、空港からここまでのタクシーやバス代も含んでいます。



料理もとても口に合い、コンドミニアムにはキッチンも冷蔵庫もあるのですが、毎回徒歩10分以内にたくさんあるレストランから、麺やチャーハンなど気ままに食べたいものを選んで食べたり、フルーツを食べてたりしています。だいたい一食150円です。


田舎で安いからといって不便なことはなく、近所にコンビニもスーパーもあります。

近所は地図で見るとこんな様子なのですが、海まで徒歩5分くらいです。ここに来てから一切雨が降らず毎日暑いので、たくさんの人が泳いでいます。




ここでは日本人はもちろん中国人にもほとんど会わず、なぜかロシア人ばかりを見かけます。しかも、若い人は少なく、中年か老人カップルばかりです。ロシアではここが有名なのでしょうか。でも、寒いロシアを脱出したい気持ちはとてもわかります!

まだ海では泳いではいないのですが、コンドミニアムにプールがあり、誰も泳がないので、独占できます。毎日、30分泳いで、30分フルートを吹いて、生活に必要な時間以外はすべて部屋で原稿を書いています。


















こちらの白人たちは本当に楽しそうにリラックスして遊んでいます。これが白人たちの言うヴァカンスなのか、と初めて認識しました。

こんな風に書くと何か自慢していたり嫌味に取られてしまうのではないかと思いますが、
日本でも夏と冬に1〜2週間のヴァカンスを取るのが一般的になればどんなに良いかと思います。

長時間きつく働いて緩む暇がないと、心身の疲れが蓄積して、かえって効率が悪く、精神状態が悪くなってしまうのではないでしょうか。

働かないことは悪ではないし、休んでいる間によいアイデアが浮かんだり、大事な人とつながったり、帰国後に良い仕事ができれるのであれば、何一つ責められるようなことではありません。

僕ですら、日本のみんなが働いている最中にこんな南国でのんびりしているのは、ちょっと罪悪感があります。でも、苦労自慢してもいいことはありませんから、ヴァカンスが取れる人は堂々といきましょう!
といいつつ、僕は「缶詰」状態で本の原稿書きの仕事をしているのですが……。

ヴァカンスといってもなにも贅沢なことはなく、今回は航空券とホテルとすべて合わせて2週間でぶっちゃけ10万円くらいの予算です。時間の自由が利くのであれば、物価の安い国は長くいるほどお得感が増しますので、本当にオススメです。

今回初めてタイでヴァカンスを取ってみて、原稿書きの効率がとても上がったので、毎年1月はまるまる東南アジアで仕事をしようかなと思っているところです。