現在執筆中のアイリッシュ・フルート教本の最も苦労した部分、歴史についてのレポートがまとまったので公開します。
まる2日かかりこんなに苦労したのは卒論以来ですが、きっと有意義な成果になったのではないかと思います。
古代の笛
アイルランドで発見された最古の笛は、13世紀のもので、やはり骨でできていました。ですが、当時どのような社会的文脈でこの笛が演奏されていたのかについては、わかっていません。
ヴァイキングが襲来してきた時期のアイルランドでは多様な笛が作られました。スカンジナビアから持ち込まれたものだったとしても、間違いなくその時期のダブリンで演奏されていました。
トニー・マクマホンTony MacMahonが古代アイルランドを舞台にしたドラマ”The Well”にて鳥の骨の笛を使っていたのですが、これはまったくの創作ではありません。
現代ではフルート奏者のDesi Wilkinsonがホッグウィード(ブタクサなど雑草の総称)やニワトコの木で作ったフルートが20世紀の変わり目くらいまで演奏されていたことをつきとめました。
ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンのアイルランド民間伝承局Department of Irish Folkloreには、北アイルランドのカウンティ・アントリムAntrimで1940年代に子供が空洞のあいたサイカモアカエデのフィップル・フルート(ホイッスル型の笛)を吹いていた写真があります。
このように、なんらかの笛が歴史的にアイルランドで演奏されていたのですが、それはティン・ホイッスルのようなフィップル・フルートだったと思われます。
伝統音楽へのフルートの導入のなぞ
私たちが関心を寄せる問題は、どのようにして伝統音楽のダンス曲の演奏にフルートが使われるようになったのか、ということです。今日の伝統音楽で使われている私たちが伝統的だと考える楽器の大半は、実際はほとんどが外国から取り入れられたものです。それらは最初は19世紀から20世紀の変わり目に、そして次に1960年~1970年代の変わり目に伝統音楽に輸入された楽器です。
それ以前の、ダンスがアイルランドで確立した18世紀中頃までに演奏されていた楽器は2つありました。ひとつはフィドルであり、もうひとつは古いタイプのバグパイプです。
多くの人がバグパイプこそがアイルランド固有で最古の楽器だと信じているのですが、意外にもフィドルのほうが歴史が古いのです。アイルランドの象徴的な楽器である金属弦のアイリッシュ・ハープは17世紀には衰退してしまいましたが、ここのテーマであるダンス音楽においては近年まで使われることはありませんでした。
この状況は、コンサーティーナやアコーディオンのフリーリード楽器、バンジョー、ギター、ピアノが伝統音楽に登場する19世紀になるまで変わることはありませんでした。それらはアメリカでのアイルランド伝統音楽の影響を受けてアイルランドに導入されたのですが、それについては後ほどお話しします。
フルートは古いこれらの2つの楽器の時代と、新しい楽器が到来した時代のどこかの時点でアイルランドに入ってきました。私たちがここで話しているタイプのフルート、つまり円錐管のシンプル・システム・フルートは、ヨーロッパ大陸において17世紀の終わりころに登場し、18世紀初頭にはアイルランドに到達していたことと思われます。
ですが、フルートがアイルランドに長い間存在はしていたにもかかわらず、伝統楽器に受け入れられて確固たるものになったのは19世紀後半になってからの現象です。
大衆音楽についての歴史的な記録や絵画は少ないのですが、いくつかわかっていることがあります。
1833年のマクリスMacliseの絵画”Snap Apple Night”に描かれた、カウンティ・コークCo.Corkでのパーティの様子の絵の中にダンサーに音楽を演奏するパイパー、フィドラー、タンボリン奏者が描かれています。
1842年の水彩画”A Sibin near Listowel”には制服を来たフルートとタンボリンのデュエットが描かれていますが、彼らは室内の観客に向けて演奏しており、後述する当時ファイフが採用されていた軍隊の軍人でマーチングの音楽や政治的な音楽を演奏しているようには見えません。
エスキン・ニコルErskine Nicholの1856年の絵画”The 16th,17th(St.Patrick’s Day)and 18th March”には、カウンティ・ダブリンCo.DublinのマラハイドMalahideにてフルート奏者がバグパイプや口琴奏者とともにダンスのために演奏する様子が描かれています。
すこし遡り、18世紀のアイルランドのダンス音楽を状況をみてみましょう。ダンス音楽が一般的に幅広く広まったのは、職業としての旅楽士達による功績で、彼らはダンス教師として特定の地域を旅しながらダンスを教えたり、ダンスの伴奏をしたり、無伴奏で楽器の独奏をし、ダンスに関わることで生計を立てていました。
ダンス教師の楽器はフィドルかイリアン・パイプスでしたが、それは当時の唯一の旋律楽器でした。フルートは当時はアングロ・アイリッシュつまりイギリス系のアイルランド人の子孫たちの間で演奏されていましたが、ダンス曲の演奏ではなく、ヨーロッパ大陸と同じような使われ方でした。
その後19世紀後半になって、フルートはアイルランドの各地の伝統音楽で見られる一般的な楽器になっていたようです。その間に、なにが起きたのでしょうか。
フルートの「お下がり」説
定説のひとつは、裕福なアングロ・アイリッシュ(イギリス系のアイルランド人)、つまり「ジェントリー」たちの「お下がり」というストーリーです。
18世紀中期からほぼ19世紀末までイギリスとアイルランドでは、フルートは地域の上品な趣味人によって演奏される、アマチュアの音楽愛好家の楽器でした。ヨーロッパの流行としてアイルランドに輸入され、良い趣味を示したり、子供の早期教育、時としてアマチュア音楽家が作曲するための目的で演奏されました。
やがてベーム式フルートが発明されると、裕福な家庭の愛好家の手にあった古いフルートは放棄され、安価でオークションや質屋に流れました。こうした大量の流出によりシンプル・システム・フルートの価格が下落し、これまでフルートなど手の届かなかった庶民の伝統音楽家の手に入るようになったのだと仮定しています。
確かに、伝統音楽の演奏に使われていたかどうかはさておいても、当時のアイルランドにおいてフルートは演奏されていました。1740年以降のダブリンにはフルート工房がありましたし、有名な伝統音楽蒐集家であるフランシス・オニールFrancis O’Neillが850年頃に西コークでフルートが「紳士の楽器」だと教えられたという数少ない書かれた記録もあります。1850年頃にバグパイプ製作家のCoyneによって作られたいくつかのフルートやファイフが現存しているのですが、これらの楽器がなんの音楽を演奏する意図で作られたのかは知りようがありません。
とはいえ、この「お下がり」説は少々疑ったほうが良いかもしれません。
というのも、もともとの所有者自身が伝統音楽を演奏していたかもしれないという資料が残っているからです。特にイリアン・パイプスに関しては、「紳士」がダンス曲の伝統に関わっていたケースがたくさんありました。
ひとつの例として、ハープのリヴァイバル初期の催しで演奏したことがあるハープ奏者アーサー・オニールArthur O’Neillは、19世紀の変わり目にカウンティー・ロスコモンCo.RoscommonのストリームズタウンStreamstownで行われたジェームス・アーヴァインMr.James Irvine氏の邸宅での音楽の催しについて日記を残しています。
その場に集った音楽家の楽器のリストには、ピアノ、ハープ、チェロ、クラリネット、フィドル(ヴァイオリンではなく)などの演奏者とともに、フルート奏者とバグパイプ奏者が含まれていました。ですからこれをもって早い時期から伝統音楽でのフルートの地位が確立されていたと考える向きもあります。
しかし、いくつかのダンス曲が演奏されていたとしても、オニールがダンス音楽を「料理人と召使の音楽」と表現していたことを考えれば、この集まりが伝統音楽の「セッション」だと判断するのは早計でしょう。
このように、19世紀中期に「紳士の」フルーティストたちによって、ダンス曲がいくつか演奏されたであろうという強い可能性がありますが、それは私たちが想像するような伝統音楽家たちがダンスのために音楽を演奏することとは異なる社会的状況でした。
まず、それらを示す文書や絵画の証拠はありません。そして、伝統音楽家が所有していた、1800年以前の時代を特定できる現存する物的証拠、つまり楽器はありません。バグパイプ製作家が作った現存する何本かのフルートは伝統音楽家たちがフルートに関心があったことを示してはいますが、そのような楽器が少ないということは、やはり伝統音楽家がそれほどフルートに関心がなかったと解釈できます。
フルートの初期の導入については、アイルランド中西部で顕著な普及の地理的な偏りについて考える必要があります。それには、軍隊でのフルートの使用との関わりがあります。
軍隊での使用について
もう一つの説は軍隊での使用がフルートを広めるきっかけを作ったというものです。大陸のフルートの伝統は、たとえば15世紀にスイスでファイフを採用した鼓笛隊が活躍していたように軍隊に起源をたどることができます。
鼓笛隊はアイルランドへは最初は17世紀にブリテンの軍隊を通じて持ち込まれました。ファイフの甲高い音が戦争の信号として、また兵士を鼓舞するために使われたのです。アイルランド王国とグレートブリテン王国との合併を定めた法律「連合法」の制定(1800)以降のアイルランドには各地に駐屯地ができ、多くの連隊が鼓笛隊を備え、公衆で演奏する機会がありました。この文化は独立後も定着し、1950年にはアイルランドの多くの街や村が鼓笛隊をっています。
アイルランドの政治運動においても、ファイフが同じ目的で使われました。特に19世紀において、ブリテン諸島の近隣の島々でもそうだったのですが、鼓笛隊はアイルランド中で流行したのです。
どうしてそれほどの人気が出たのでしょうか。それは、フルートが最も安く、学ぶのも簡単で、携帯性があったからです。そして、これら鼓笛隊で使われていた楽器は安くて手に入りやすく、北部では多くの場合、旋盤で外形を削るのではなく、小刀で削り木工きりでボアを作り、歌口と指孔を焼ごてで開けるという、誰にでも可能な技術で作られた多くの記録がありました。
音楽が録音物ではなく楽器によって奏でられた時代、笛の音色は遠くまで届き、人々を特に惹きつけました。若い人たちは文字通り、音楽を学ぶために軍隊に入隊したのです。
今日フルートの伝統が根強い地域は19世紀に政治的な運動が盛んだった地域、つまり流行や富の中心から置いてかれた、変化がゆっくりな場所と関わりがあります。こうしてフルートと太鼓が庶民の生活に持ち込まれました。
伝統音楽においてスライゴー、リートゥリム、ロスコモンと北メイヨーでフルートが盛んに演奏されるのは、このような理由があるのです。
鼓笛隊で演奏される横笛ファイフが伝統音楽において使用されていたという証拠はありませんが、それを完全に否定する証拠もありません。
しかし、軍隊でフルートが使われたことは、潜在的な演奏者を広めるきっかけになったという点において意義があります。軍隊のファイフやフルート奏者たちが、彼らが演奏できる楽器をもって伝統音楽に触れたとは考えるのは自然なことです。この理論を支持する興味深い言語学的な点は、「ファイフ」という用語はアイルランドの田舎ではフル・サイズのフルートを意味するということです。
ファイフは通常はコンサートフルートよりもずっと短いBb管ですが、当時のダンス音楽はソロで演奏されていたため、標準ピッチという概念がなかったことを加味しておきましょう。
北部アイルランドでの鼓笛隊の伝統については、Gary Hastingsの”With Fife and Drum”を参考にすると良いでしょう。
移民による導入
フルートを紳士たちが愛好したことと、軍隊を通じて鼓笛隊が組織されたことの両方のできごとによって、フルートはアイルランドでは馴染みのある楽器になりました。このおかげで、円錐管のシンプル・システム・フルートがオーケストラでは時代遅れとなり一般の奏者に手に入れやすくなる時代までに、すでにフルートやファイフを演奏できた人がいたということは明白です。
フルートは実際のところ、アメリカやイングランドに渡っていったアイルランド移民たちを通じて伝統音楽に導入されていきました。直接アイルランド人たちがフルートを購入していたことは、フルートが当時すでにアイルランドの伝統楽器としての側面を持っていた可能性を示唆しています。
19世紀後期と20世紀初期の前に、たくさんのシンプル・システム・フルートが手に入っていたであろう証拠はいくつかあります。シンプル・システム・フルートはこの時期に多くのプロやアマチュアから放棄されたからです。
19世紀後期から、ドイツのザクセン州やアメリカで作られたシンプル・システム・フルートの多くは、移民労働者が買える程度の値段になっていました。それらはジャーマン・フルートとして知られる楽器で、伝統音楽家の手にまだ残っているという意味では最初の物的証拠であり、伝統音楽家によって奏でられた写真の証拠としても残っています。
私たちが今最も親しんでいる大きな孔を持ったイングランドのフルートはアイルランド移民が移民先をアメリカからイギリスに変えるようになった時までは登場しなかったようです。
当時の伝統音楽家が海外に行く友達や親戚を探して、フルートを持ち帰って欲しいと頼んだでろうということは想像にかたくありません。最初はアメリカから、続いてイングランドから送られて持ち帰られたフルートが、すでに伝統音楽で
フルートを演奏しているのを見たことがある奏者の伝統音楽での需要を満たしたのです。
アメリカからの影響
最初にお話ししたとおり、18世紀中期以前ダンス音楽はソロで演奏され、楽器の種類は限られたものでした。こんにちのように数多くの楽器がアンサンブルで演奏されるようになった背景には、アメリカからの影響がありました。
移民国家アメリカでは約1900年以降、様々な人種を対象にした世界の伝統音楽の録音産業が発達しました。その中にはアイルランドの伝統音楽も含まれており、当時のアメリカの大衆音楽の影響を受けてピアノで伴奏されるのが常でした。余談ですが、この文化はイリアン・パイプスのレギュレーターの発達にも影響を与えています。このようにアンサンブルで演奏することが一般的となり、これまで使われてこなかった様々な楽器も伝統音楽で使用されるようになりました。その中にフルートがありました。
録音産業は1920年に崩壊するまで様々な録音を遺し、その中にはアイリッシュ・フルートの最初の音響的な証拠となる音源も含まれていました。
大飢饉後のアイルランド系移民は、ベーム式フルートに取って代わられて不要になった木製フルートを収集し、そのうちいくつかをアイルランドに送りました。賃金労働者達には今やフルートを買う経済的な蓄えや、文化活動をする時間もあったのです。
木製フルートはアメリカにおいてアイルランド音楽の象徴的な楽器になりました。オニールの曲集には、美しい楽器を持ったたくさんのフルートの紳士達の写真があります。
20世紀に入るまでのアイルランドの田舎において、これらの新しい楽器が演奏されていたかどうかははっきりとはわかりません。フィドルについては影響力のある演奏者がその後で何世代も地域の伝統に貢献したことについてはよく記述されていますので、フルートにもそのような現象があったことは考えられますが、このことは、フィドルとパイプスの地位に比べてフルートの地位がまだ低かったことを思わせます。
フルートの繁栄
これまで見てきたように、アイルランドのダンス音楽にフルートが導入されるようになるまでには紳士のフルートの愛好、軍の鼓笛隊での使用、モダン・フルートの誕生とシンプル・システム・フルートの没落、移民、アメリカでの音楽産業という複数の要因が関わっていました。
モダン・フルートが普及し、アイルランド人の経済力が向上した後もなおシンプル・システム・フルートが伝統音楽で求められ続けているのはなぜでしょうか。
19世紀の主な楽器はイリアン・パイプスでしたが、その運指はシンプル・システム・フルートとほぼ同じでした。指孔を直接抑えることも共通しており、音程を滑らせたり意図的に低くしたりして、感情を表現することができました。
平均律ではない音程を表現できる能力は、古いレパートリーをフルートに移し替える際に有効で、個人や地域的なスタイルを表現することができたのです。
また、シンプル・システム・フルートは、アイルランドの最も伝統的な楽器のひとつであるフィドルで得られる完全な音程、音量の幅や洗練されたアーティキュレーションなどを再現できる、理想的な楽器でした。
こうして20世紀初期のアメリカでのフルートの録音を経て、1930年から1970年の間にケイリーバンドが発展し、フルートはバンドの中にかならず1人から3人は含まれる、重要な楽器となりました。1960年代のフォークリヴァイバルから、フルートはアイルランドで人気を得て、1970年には伝統音楽への回帰運動が起き、フルートはいまや世界中のどこでも広く演奏される楽器となりました。
アイルランドでの伝統音楽のリヴァイバルに触発され、いくつかの重要なフルート奏者の功績により、シンプル・システム・フルートはウェールズ音楽、スコットランド音楽、フランスのブルターニュ音楽、スペインのアストゥリアス音楽などヨーロッパ各地へと再び広がっていったのです。
現在は世界中に高いレベルのシンプル・システム・フルート製作家がおり、新たな需要を満たし続けています。また、それを牽引する国際的に知られた多数の名演奏家がいます。フルート奏者によるソロアルバムは数百とあり、シンプル・システム・フルートの教室は世界にあり、専業の教師がたくさんいます。このように、シンプル・システム・フルートはいま、まさに19世紀以来最大の繁栄を誇っているのです。
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